1)筆者幼少の頃、父晴山徳次郎から「晴山家の先祖は、京都から軍資金を味噌樽の底に沢山かくして奥州南部の晴山邑に落ちのび、当時のしきたりにより橘の姓を部落名の晴山と改め、その部落に城を築きこもった士なんだぞ」と教えられたものであった。
長じて歴史を研究するようになったら、晴山家の屋号は橘屋と云うし、長持の中には橘なにがしの水牛の印が、丸形、長方形などの大きなもので、2・30個もあったし、また古刀や南部家拝領の刀など何十本とあったものである。大正の御代、18代重三郎まで、久慈備前ノ守の所有で穀蔵であった久慈市田屋の御倉屋敷を始め、広大なる土地を所有した橘屋を思うとき、うなずかれる点が多々あった。(晴山福一郎著、久慈地方人物伝「晴山治部少輔」より)
2)久慈市に、晴山氏がある。うち、江戸期の久慈八日町の中心部に屋敷を構えた豪商、屋号「橘屋」の晴山家があった。一族の晴山福一郎家の伝承では、橘姓で京都に住していたが、奥州に下って晴山村(軽米町)に土着し、地名から晴山を称したという。天正19年九戸政実の乱で敗残の士となり、久慈町に住したと伝える。当主は代々重三郎を名乗る。
略系を示すと、十三郎(享保5年初見、名主)ー重三郎ー重三郎(延享3年質屋開業、酒屋・製鉄業も営み、卸買大豆請取人、御用金上納)ー重三郎(所持船で、久慈より青森へ鉄移送、文化5年御用金1千両を要請されたが100両を献上、久慈通御買上大豆受取人、舟宿)ー重三郎(問屋、名主、八戸御荷物支配人兼問屋、質屋)ー重三郎(弘化元年55石の清酒鑑札、鉄山支配人を務め苗字帯刀御免、御調役所、元治元年御用金1千両献上、明治10年没)ー重三郎ー要一郎と継ぎ、絶家となった。明治10年の地図には分家など数家が見える.晴山一族は丸に橘紋を使用。(岩手県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 岩手県姓氏歴史人物大辞典 角川書店より)
3)大正末期まで久慈地域で栄えた橘屋は代々重三郎を名乗ることとなっていた。橘屋は久慈地方きっての豪商で、漁業、質屋、酒造、鉄山支配人を営み、地方民から「橘屋落ちぶれることあらば、久慈川は逆さに流れるだろう」とまで云われていた。江戸時代、八戸藩から2000両の御用金を要請されたり、鉄山支配人を務め、苗字帯刀を許される。久慈市史(近代)によると、当時の高額納税者の1位に晴山重三郎がおり、九戸水力株式会社を興し、山口発電所を作り、久慈に始めて電気をともしたほか、久慈町の消防組頭を務め政治家としても名をはせていた。
しかし、大正年間2度起こった久慈大火により、末路哀れに破産してしまうのである。
久慈の商人は戒めの言葉として「なんぼ資産があっても橘屋のように一代で「かまど返し」することがあるから気をつけろ」という。(九戸歴史民俗の会編、北三陸の歴史探訪「晴山重三郎」より)
※晴山邑=現在の九戸郡軽米町晴山
※晴山重三郎=橘屋晴山家の当主は歴代重三郎を名乗ることとなっていた
※晴山徳次郎=久慈町より表彰功労(功労碑は久慈市長福寺に山門にあり(写真参照))
※晴山福一郎=橘屋分家(下かまど)の出であり、弊社顧問の祖父にあたる
※長持(ながもち)は主に近世の日本で用いられた民具の一つで衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱
※晴山重三郎奉納 竜宮図(諏訪神社の絵馬)
久慈市中の橋通り整骨院晴山福一郎さん(市教委)方に南部公から拝領した木杯があって珍しがられている。キリの箱に納められた木杯には、金ぱくで南部家の紋、向かいヅルが描かれ直径25㌢で「南部遠江守様拝領の盃」となっている。晴山家は同市でも旧家で、この外数々の品があったが20年の大火でほとんど焼失してしまったが、これだけが残っていたもの。
酒を入れたら、0.9㍑は入る大きな杯だが、満杯にして、二た口半で飲みほすのが流儀といわれ、昔の武士の面影や酒豪のほどがしのばれている。
(昭和37年12月12日 読売新聞岩手版)
九戸政實公ゆかりの九戸神社(九戸村)に奉納されている手水。納主「久慈八日町 晴山十三郎(重三郎)」